AI時代、日本にとって「翻訳」とは何か
― 日本語で世界の知を学び、日本の知を世界へ届ける
一般社団法人 日本翻訳協会 代表理事
バベル翻訳専門職大学院 元副学長
堀田 都茂樹
日頃より、日本翻訳協会の活動にご理解とご支援を賜り、厚く御礼申し上げます。
日本翻訳協会は1986年の設立以来、翻訳の専門性を高め、翻訳者の育成と能力評価を通じて、日本社会と国際社会の発展に貢献することを目指してまいりました。
そして2026年、設立40周年という節目に、翻訳を取り巻く環境は大きく変わろうとしています。
生成AIの進化によって、これまで人間が担ってきた多くの翻訳作業を、AIが短時間で行えるようになりました。
だからこそ、日本翻訳協会は、人間自身の翻訳基礎力を大切にしながら、AIを適切に活用できる翻訳者を育成し、その能力を評価していく必要があると考えています。では、AIが翻訳する時代に、人間はなぜ翻訳を学ぶ必要があるのでしょうか。そもそも、日本にとって翻訳とは何だったのでしょうか。そして、これからの翻訳者には何が求められるのでしょうか。私は、これらの問いを改めて考えることが、日本翻訳協会の次の40年への出発点になると考えています。
1.日本は翻訳によって世界の知を学んできた
日本の近代化を支えた重要な知的基盤の一つが翻訳でした。明治以降、日本は西欧の科学、技術、法律、政治、経済、哲学などの知を、翻訳を通じて積極的に取り入れてきました。それは、外国語をそのまま受け入れることではありませんでした。新しい概念を日本語で理解し、日本語で考え、議論できる形にすることによって、世界の知を日本社会の共有財産としてきたのです。
今日、私たちが日常的に使う多くの近代的な概念も、こうした翻訳と概念形成の積み重ねによって定着してきました。翻訳とは、単に外国語を日本語に置き換える作業ではありません。世界の知を、自分たちの言葉で理解し、共有できるものにする知的な営みだったのです。
2.母語で考え、世界とつながる
言語は、単なるコミュニケーションの道具ではありません。人間が世界を理解し、考え、感情を表現し、文化を継承するための基盤でもあります。もちろん、国際社会において英語をはじめとする外国語を学び、活用することは重要です。しかし、外国語を使う能力と、日本語で深く考え、創造する能力は対立するものではありません。
日本語で世界の知を学び、日本語で新たな知を生み出し、その成果を英語をはじめとする多言語で世界へ届ける。その循環を可能にするのが翻訳です。日本語を大切にすることと、世界に開かれることは矛盾しません。翻訳によってこそ、その二つを結びつけることができます。
3.AI時代に変わる翻訳者の役割
今日、生成AIは、多くの翻訳作業を驚くべき速度で実行できるようになりました。この進歩を否定する必要はありません。むしろ、AIを適切に活用することによって、翻訳の可能性は大きく広がります。しかし、AIが訳文を生成できることと、その訳文が本当に適切であるかを判断できることは同じではありません。
原著者は何を伝えようとしているのか。
原文の意味や論理は正しく捉えられているのか。
読者にとって分かりやすく、目的に合った表現になっているのか。
文化的背景や専門分野の知識を踏まえているのか。
AIはこうした分析を支援できます。
しかし、翻訳の目的を定め、出力を検証し、必要に応じて修正し、最終的な責任を担うのは人間です。さらに、AIを業務で利用する場合には、機密情報の管理、著作権や利用許諾、データの扱い、AI出力の正確性などについても適切に判断する必要があります。
AIリテラシーとは、単にAIを操作できることではありません。
AIの特性と限界を理解し、その結果を検証し、責任を持って利用できることです。
これからの翻訳者は、単なる「言語変換者」ではなく、原文の意味を理解し、情報を検証し、読者にとって最も適切な形で伝える専門家になっていく必要があります。
4.AI時代だからこそ、人間の翻訳基礎力が必要である
AIが高度な翻訳を行うようになれば、人間は翻訳能力を身につけなくてもよくなるのでしょうか。私は、むしろ逆だと考えます。AIの翻訳結果が適切かどうかを判断するためには、人間自身が原文を理解し、訳文を評価できなければなりません。その基盤となるのが、原文読解力、文脈把握力、論理的思考力、専門知識、文化理解力、そして日本語・外国語による表現力です。
これらを総合したものが、翻訳の基礎力です。
私は、それをあえて「翻訳の地頭」と呼びたいと思います。
AIに何を求めるのか。
AIが示した訳文のどこが適切で、どこに問題があるのか。
複数の訳出案の中から、なぜその表現を選ぶのか。
こうした判断ができなければ、AIを使っていても、その結果を適切に評価することはできません。
日本翻訳協会が、人間自身の翻訳力を測る検定においてAIの使用を認めない場合があるのも、AIを否定するためではありません。AIを使わない状態で、どの程度の読解力、思考力、翻訳力、表現力を持っているのかを確認するためです。
一方、実務ではAIを適切に活用する能力も重要になります。
したがって今後は、
「人間自身の翻訳基礎力を評価すること」と、
「AIを含む翻訳実務を適切に遂行できる能力を評価すること」を、
明確に区別して考える必要があります。
5.世界の知を日本へ、日本の知を世界へ
これまで日本の翻訳は、海外の知識や文化を日本へ導入するうえで大きな役割を果たしてきました。しかし、これからは世界の知を受け取るだけでなく、日本の知を世界へ届けることも重要になります。
日本には、世界に伝える価値のある知識や文化が数多くあります。
それらを海外へ伝えるためには、単に言葉を置き換えるだけでは十分ではありません。日本固有の概念や背景を異文化の読者に理解してもらうためには、説明や構成、表現上の工夫が必要になります。翻訳者には、原著者の意図を尊重しながら、異なる文化の読者との間に橋を架ける役割が求められます。
世界の知を日本へ。
そして、日本の知を世界へ。
この双方向の知的交流を支えることも、これからの翻訳の重要な使命です。
6.多言語・多文化社会を支える翻訳
世界には、多様な言語、文化、宗教、歴史、価値観があります。グローバル化が進んでも、それぞれの文化が独自性を失う必要はありません。翻訳とは、違いを消すことではありません。違いを残したまま、互いに理解できるようにする営みです。
AIによって言語の壁が低くなった今だからこそ、人間には、文化や価値観の違いを理解し、それを適切に伝える力が一層求められるでしょう。
7.これから日本翻訳協会が取り組むべきこと
設立40周年を迎えた今、日本翻訳協会は、AI時代における翻訳者の専門性を改めて考える必要があります。私は、今後のJTAには、特に次の四つの取り組みが重要になると考えています。
第一は、人間の翻訳基礎力を守り、育て、評価することです。
AIを使わなくても発揮できる読解力、思考力、翻訳力、表現力を明確にし、検定を通じてその能力を評価していきたいと考えています。
第二は、AIを含む翻訳実務能力の評価です。
AIを使えるかどうかだけではなく、いつ使うべきか、出力をどう検証するか、品質をどう管理するか、情報や権利をどう守るかまで含めて評価する必要があります。
第三は、AIリテラシー教育です。
AIの特徴、限界、リスクを理解し、人間自身が判断主体となってAIを適切に利用する能力を育てていきます。
第四は、翻訳者の専門性を社会に示すことです。
AIが翻訳文を生成できる時代だからこそ、翻訳者が果たす役割を改めて明確にする必要があります。翻訳者は、単に文章を訳す人ではありません。原文を理解し、情報を検証し、適切な表現を選び、翻訳成果物の品質に責任を持つ専門家です。
日本翻訳協会は、こうした専門能力を明らかにし、翻訳者の継続的な成長を支え、その社会的価値を広く発信していきたいと考えています。
結びに ― 翻訳の未来は、人間の知の未来である
日本は、翻訳によって世界の知を学び、それを自らの文化と融合させながら発展してきました。そして今、私たちはAIという新しい技術を手にしています。AIは翻訳の速度を飛躍的に高め、言語の壁を低くしてくれます。しかし、何を理解し、何を伝え、どの表現を選び、その結果に責任を持つのか。その判断を担うのは人間です。
翻訳者は、AIに仕事を奪われる存在ではありません。AIを適切に活用しながら、意味を理解し、価値を判断し、文化と文化をつなぐ専門家として、その役割をさらに発展させることができます。
そして日本翻訳協会は、人間自身の翻訳基礎力を大切にしながら、AI時代に必要な新しい専門能力を育て、評価し、社会に示していきます。AIが言葉を訳す時代だからこそ、人間はその意味を深く理解し、判断し、責任を持って文化をつなぐ。私は、そこにAI時代の翻訳者の新しい可能性があると考えています。
日本翻訳協会は、この考えのもと、翻訳の新たな価値を社会に発信し、世界の知と文化の交流に貢献してまいります。
今後とも、皆様のご理解、ご支援、ご協力を心よりお願い申し上げます。
一般社団法人 日本翻訳協会 代表理事
バベル翻訳専門職大学院 元副学長
堀田 都茂樹