文法篇>代名詞


 1 代名詞のさすもの

 人間とは面白いもので、お互いによくわかりあった仲だと、「あれをなにして……」と言っただけで、思ったとおりのものを思ったとおりにしてくれる。それは日常の暮しの話で、文章に書かれる場合には、ことわりもなくいきなり「あれ」だの「それ」だのが出てくる気づかいはない。代名詞には必ず referent (指示物)がある。しかもなお、指示されたものをまちがえるというのは、文章とよくわかりあった仲になっていないからである。

例文1

【原文】Since understanding people was the core of his work, he would help me if my research also helped him and others to learn about themselves.

【誤訳-1】人々を理解するのが彼の仕事の中心であるから、もし私の研究が彼の仕事の役に立ち、他の人々が自分自身を知るのに役立つならば協力しよう、と彼は言った。

【試訳】@「人を理解するのが私の仕事なので、あなたの研究で、私やほかの連中が自分をよく知ることができるなら、しましょう」と彼は言うのだった。

 日本語で間接話法にすると非常に複雑でわかりにくくなるので、こんなふうに直接話法風に変えてしまうのは、翻訳でよく使う手なのだが、原文に即して間接話法にもどすと――

 【試訳】A人を理解するのが彼の仕事なので、私の研究によって、彼やほかの連中が自分自身をよく知ることができるなら、私に協力しよう、と彼は言った。

 themselves の中には彼も含まれているのに、【誤訳】は切り離している。

例文2

【原文】[He was an excellent teacher.] A few conducting gestures, an encouraging word, could have the effect of lifting the pupil above himself.

【誤訳‐2】……ちょっとした動作や励ましの言葉が、弟子を先生以上に引き上げる効果をもたらした。

【試訳】……ちょっとした指揮のジェスチャーや、一言の励ましの言葉で、生徒が本来の自分以上になるききめがあった。

例文3

【原文】The more a parent loves his child, the less he asserts himself or shows power.

【誤訳‐3】親が子供を愛することが多ければ多いほど、子供はそれだけ自己主張することが少なく、権力を示すことも少なくなる。

【試訳】親は、子供を愛すれば、それだけでしゃばることも、力を示すことも少ないものだ。

 理屈の上では代名詞の指示物が二つ以上ありうる場合、意味の上で判断するほかないが、その判断ができないような状況で、代名詞が使われることはほとんどないと言っていいだろう。そんなあいまいな書き方をするのは、著者として落第だろうから。この場合がそれで、he は、確かに parent, child のいずれをさすこともできる。しかし、子供が権力を示すというようなことが一体あるものか、考えてみればいい。

例文4

【原文】The athlete often represents the spectator as he sees himself in his own mind's eye.

【誤訳‐4】スポーツ選手は観客から見た場合、観客の心眼におけるその選手のイメージであることが多い。

【試訳】スポーツ選手は、観客が心眼に描いている観客自身の姿であることが多い。

 再帰代名詞は、動作が自分自身に向けられている、自分自身を動作の対象とするときに使われるものだから、he sees himselfの himself は、はじめの he と同一人物でなければならない。その he は spectator であることは明白で、【誤訳】もそこはまちがえずに解釈しているのに、himself の方だけ athlete にとっている。だいたいそれでは意味が通じない。

例文5

【原文】I have known... poets who have composed verses in dreams. I have made some myself, which are very passable.

【誤訳‐5】私は夢において……詩をつくった詩人を知っている。私自身がほんとうに首肯し得るような夢を見たこともあった。

【試訳】私は、夢の中で詩をつくった詩人を知っている。私自身、まんざらでもない詩をつくったことがある。

 「首肯し得る夢」とはどんな夢なのか誰にもわかるまい。わざわざわからないように曲解するのだから不思議なものである。some はもちろん verses をさす。